弥生ちゃんのハートフルエネルギーヒーリング(遠隔)♡感想

この記事の目次1 <1回目>脳の疲労を取りたい2 <2回目>第1回を受けてから5日後3 <3回目>第2回を受けてから2時間半後 <1回目>脳の疲労を取りたい まさえ様より、遠隔ヒーリングのご感想をいただきました。   〇不調: 顔のシミ脳疲労(脳が疲れて仕事が進まない。)体重5~6㎏減らしたい(弥生ちゃんより体重は減らないので、代わりに小顔にしてくれるとのこと) 〇遠隔を受けている間: 脳が光に包まれている感じがした。 最初に前頭葉、次に脳の中心の部分の茶色い丸に見えるところにエネルギーが来た感じがして、やがて脳全体が金色になったように見えた。 (弥生ちゃんは、終了後に「海馬に送ったよ」と言っていたので、あとで脳の中心の茶色い丸に見えたところを、脳の解剖図を見たら海馬のあたりだった!) 脳が金色の光をさ~っと放ってきれいだな~と見ていたら、急にコンコンと咳き込み始めた。それがすごく激しくなり、鼻水も出るようになった。咳が止まらない。 脳ヒーリングの好転反応(不要なものが咳を通じて出ていく)なのかな?と思ったが、弥生ちゃんは「このヒーリングに好転反応はない。そうではなく、一つ終わると次はここ、というように別な部位が訴えて症状が出てくるようになる」と教えてくれた。 でも、私は今までの人生で、肺に問題があったこともなく、呼吸器の疾患になったこともない。風邪をひいた時でも、特に咳に苦しんだ覚えはない。 なんでだろう?そういえば、昨日、コンビニで買った桃入りのヨーグルトを数口食べたら、咳が止まらなくなったことを思い出す。そして、添加物の入ったものを食べると、痰が多量に出たりもする。このところ、体が異物を排出するために咳や痰を出すようになっていたのだった。この激しい咳はかなりしつこく、弥生ちゃんにいっぱいエネルギーを送ってもらった。 そして、最後はシミにエネルギーを送ってくれた。シミに塗るように、エネルギー水も作ってくれた。エネルギー水を手の甲に塗ってみたら、肌が白くなった。 〇遠隔ヒーリング後:直後に少し眠くなった。が、仕事の予約が入っていたので、寝なかった。 仕事終了後、耐えられないほどの眠さになり、なんとか残りの事務を片付けて、とにかくちょっと横になって仮眠をしようと布団に入る。それが18時。……起きたら夜中の2時だった! 8時間ぶっ通しで寝た!普段の睡眠時間は6時間ぐらいだから、めっちゃ良く寝た!! そして、さらに4時から7時半まで再び眠る。合計11時間半!!こんなに寝ることは普段ない!! このものすごい眠さは、弥生ヒーリングを受けたからでは、と思う。今日の眠さはとにかく強烈だった。弥生エネルギーヒーリングすごし! 朝7時半に起きた後はスッキリ!!目覚める。しかし8時からまた眠くなる。シャワーを浴びてスッキリするも、10時には再びめちゃめちゃ眠い、寝たい~~。 それから14時まではずっと眠かった。14時から仕事をして、その後すごく頭を使う事務作業をする。めっちゃ込み入っていて、面倒な作業なのに、ちっとも頭が疲れない。 とても集中できるし、いつもなら頭脳労働をしていると頭の芯が重くなるのに、そうならない。そのままガ~ッと事務仕事にのめりこみ、夜中の0時になったら、さすがに頭の疲れを感じた。 しかし、16時~0時まで8時間も、面倒で込み入った事務仕事に集中できたなんてすごい!!普段ならあり得ない!!遠隔してもらっていた時に激しく出ていた咳も止まっている。 昨日は咳が出た、コンビニの桃入りのヨーグルトを食べても、今日は咳が出ない!おお、感動!!平気になっている!! 私の中の何かが変わった。 その翌日も、とても脳の調子が良くて頭脳労働がサクサク楽々できる。私ってこんなにできるんだ~~、とうれしい。昼から少し咳が出始める。その翌日は咳が増え始める。 そういえば、去年から職場で、コロナ対策の消毒として家庭用洗剤(かんたんマイペット)で机やドアノブを拭く作業をすると、咳が止まらなかった。(もともと、制汗スプレーやヘアスプレーを吸い込んでも咳が止まらなくなる) また、お茶でむせたり、のどに何か引っかかって咳をしたくなったこともあったが、このご時世、マスクをしていても咳をすると非常に嫌がられるので、咳が出そうになるとのど飴をなめて、咳が出ないように抑えていた。 弥生ヒーリングを受けたら急に咳き込み始めたのは、もしかしてずっと、咳をするのを無理に抑えていたからかな?と思う。そして、脳も少し重くなってきたので、再ヒーリングを申し込む。 <2回目>第1回を受けてから5日後 〇不調: 頭痛、吐き気、胃痛 2回目は、脳と咳にヒーリングをしてもらうつもりが、その日の朝にヘナをしたら、急に頭がガンガン痛くなり、吐き気もして、胃も痛くなり、レメディーもヒットせず、起き上がれないほど衰弱したので、そちらにしてもらう。 〇遠隔を受けている間:とにかくつらくて椅子に座っていることもできないので、ZOOMのカメラを床において私が映るようにして床に寝転んで受ける。 実況中継してと言われるが「う~」「痛い~」「つらい~」しか出てこない。ZOOMでつないでいるが、髪や身なりにかまう余裕はなく、とにかくつらい状態。 〇遠隔後:すぐに寝た。1時間半ほどうとうと眠る。 起きたらだいぶ楽になっているが、まだ頭痛と胃痛と気持ち悪さがある。 明日は終日、しゃべりっぱなしの仕事があるので、どうしても今日中に体調を万全にしないといけない。さっき弥生ちゃんが「もしよくならなかったら夜追加でするよ」と言ってくれたので、再度お願いする。 <3回目>第2回を受けてから2時間半後 〇不調: 頭痛、軽い胃痛、気持ちの悪さ 〇遠隔中: さっきは起き上がれず、寝ているしかできなかったのが、椅子に座れるようになっている。さっきは髪がボサボサで、でも、髪の毛どころではなかったが、今度はブラシで髪をとかし、ZOOM映りがいいように整える余裕がある。笑うこともできる。 弥生ちゃんが肩にエネルギーを送ってくれると、その場所がぬくぬくポカポカしてくる。その部分にお日様があったっているような、または、その部分がこたつに入っているような、気持ちいい暖かさ。 弥生ちゃんにそう伝えると「手を当てているんだよ」と言っていた。首・肩をやってもらうと、頭痛が和らぐ。が胃が痛くなる。今度は胃にヒーリングしてもらうと、首・肩が痛くなる、の繰り返し。 何度も何度もやってもらう。30分以上やってもらい、頭痛と胃の痛みはほんの少し残っているだけになる。第3回目を受け始めた時の1/5ほどになっている。 パソコンの細かい字を見ても気持ち悪くならなくなっている。これで明日の仕事も大丈夫そう。早寝して9時間ほどたっぷり眠る。 翌朝は、こめかみ+うなじの鈍痛、胃の鈍痛がほんの少しだけ残っていたけれども、日常生活に支障のないぐらいのもので、昨日の第2回目を受ける前の激しい症状と比べたら、1/50か1/100になっている感じ。 〇遠隔後: わずかに残っていた痛みは、あとでレメディーを自分で調べてとったら治った。第2回、第3回のヒーリング後、咳も出なくなっていた。(第1回以外は、咳にヒーリングを送ってもらったわけではないと思うが出なくなった)しかし、その後また出るようになったので、それにもレメディーで対応したら治った。 それにしても、とにかく自分では何もできない一番辛い時に、めっちゃよく効いた、弥生ちゃんの遠隔に感謝感謝!!すばらしいな~~~!! 本当にありがとうございました!!

頭のサイズをあっという間に変えて小顔になるヒーリング・募集

この記事の目次1 やりたいことを優先する私になる2 頭のサイズをあっという間に変えて小顔になるヒーリング3 9月のご予約可能日程4 小顔ヒーリング募集のご案内 やりたいことを優先する私になる ヒーリングの師匠に弟子入りし日々、モニターさんにヒーリングをして「技」を磨いています。 9月モニター募集は、2日で満席になりました。なかでも、町子さんの動機に感動しました。 「この先も不調と付き合い続けることは、しょうがないと思っていました。やりたいことを優先する私になる。そのために申込みをしました。よろしくお願い致します。」 町子さんは、8月モニターに参加してくださっていました。 2回のヒーリング体験後に体の歪みが整ってきて体調がよくなっていたのですが階段から滑って落ち、尾骨、骨盤を打ちました。 「尾骨から首、頭がずーんと痛くて苦しい。」とSOSがあり早速にzoomで繋ぎ、遠隔ヒーリングをしました。 これまでの2回の対面ヒーリングで町子さんの骨格バランスが私の脳裏にインプットしていたことも功を奏しました。 ヒーリングたったの10分でむちうちみたいなつらさ:ゼロ骨盤の痛み:ゼロ背中の痛み:ゼロ と、すっきりされました。 常に痛みがあることで、やりたいことに制限がかかっている人は多いと思います。 町子さんは階段から落ちた後に接骨院に行ったそうですが痛みが残っていたので痛くない姿勢を工夫したり痛みをだまし、だましの動きをしていました。 言い換えると、痛みが消えることをあきらめていたんですね。。。 これは、町子さんに特別なことではないと思います。 私が使っているヒーリングは、エネルギーの源がいいのでエネルギーにお任せするだけでかなりいい反応が得られます。 また、町子さんはヒーリングと一緒に「弥生水」も使ってくださっています。 水の中に、エネルギーを入れ込んいるのが「弥生水」です。 「弥生水」を毎日使うことで乾燥からくる顔の痒みはかなり楽になっています。 ・接骨院の施術後に残っていた痛みがなくなり・高い化粧品を使っても乾燥が続いていた肌トラブルが良くなってきている の体験から、9月モニターにもお申込してくださいました。 生観院 捨名師匠のヒーリングは、アイディア次第でいろんな応用ができます。 「やわらか頭治療院・未来」院長の 小山隆敬さんは、直弟子仲間のアイドル的な存在です。 小山さんの経験と師匠のヒーリングを掛け合わせていくつもの「小山技」を開発しています。 小山技の一番人気は小顔ヒーリング、いわゆる「小顔になる技」です。 体験した人は、1ヶ月後も小顔を維持できているそうです。 直弟子コースが開始して2ヶ月しか経っていないので何ヶ月も経過している方がいらっしゃらなくてどのくらい持続できるかが分かりません。 小山さんが 先日の直弟子コースでの昼休みに、コツをシェアしてくれました。 すごかったのが 10人の直弟子を横並びに座らせ小山さんがパチパチパチとヒーリングしていくと一瞬で、10人が小顔になっちゃたんです。 もっとすごいのは、直弟子全員が「小顔になる技」を使えるようになったことです。 私がやっていた小顔ヒーリングがバージョンアップしましたので、お披露目します。 期間限定のモニターさんです。   頭のサイズをあっという間に変えて小顔になるヒーリング ■ 内容 ・頭形の調整・頭サイズの調整・頬のリフトアップ・ほうれい線を薄く 時間 10-15分  ■ オプション弥生水 500ml サイズ     皮膚トラブルでお悩み方にご好評いただいています 9月のご予約可能日程 9月分のご予約(8枠)のご予約日程をご案内致します。 各お時間帯1名、合計8名の募集となります。 9月4日(土曜日)お申込み終了しました。 小顔ヒーリング募集のご案内 ■ 方法:対面(JR仙台駅徒歩10分)     又はZoom(全国どちらからでも受けられます) 対面の方には「骨盤を整える技」を追加しますので、腰幅の変化が期待できます。 ■ 定員:8名(年齢、性別は問いません) ■ お申込フォーム こちらのフォームに必要事項をご記入の上送信下さい ※モニター終了後、感想(文)をお願いします   ※9月以降にご希望の方  ・ご希望日時を複数お知らせください。曜日、時間帯(午前、午後、夕方以降) ・Zoomのみとなります

エネルギーセラピー 秋のスペシャル企画モニター募集(9月)

この記事の目次1 200名のモニター様から大好評をいただいています2 秋のスペシャル企画・コースのご案内3 9月のご予約可能日程4 秋のスペシャル企画募集のご案内 200名のモニター様から大好評をいただいています 師匠に弟子入りして2ヶ月が経ち、師匠から伝授の「技」を継承しながら、わくわくしています。 師匠が言うには、「このエネルギーは使えば使うほどに、純度が増す。」そうです。 私の手から出るエネルギーの粒子が細かくなっていきモニターさんのボディの細部に入っていきやすくなるイメージです。 また、「嫌な反応が全くないのがいいところ。」とも言います。 「技」は、さまざまな不調に対応ができます。エネルギーを全力照射してモニターさんの体に入れていくことで、かなりいい反応があります。 直弟子達は、エネルギー照射に加えて不調を細かく分析して導き出したところにターボ級のエネルギーを照射していきます。 例えば、肩凝りでは、肩の大きな筋肉に向けて○○の出力で○分エネルギー照射する。 というような小技を使っていきます。 凝りや痛みは、モニターさんの感度にもよりますが楽にならなかった方はいません。 これまで延べ200人以上の方への実績から自信をもってご案内させていただきます。 ご提供できる「技」の例・痒い・肩が痛い・首が回りにくい・首を寝違えた・腰が痛い・膝が痛い・背中が痛い・股関節が痛い・骨が曲がっている・腱板が傷ついている・頭が痛い・味覚がなくなった・においがわからなくなった・いびきをかく・ねむりが浅い・じんましんみたいになる・勃起しづらい・ほっぺた、鼻の横を押すと痛い・髪の毛が薄くなってきた・しこりが気になる・手足が震える・バランスがとれなくて姿勢を保ちにくい このような症状を「改善させたい!」と思われる方は、是非エネルギーセラピーをお試し下さい。 秋のスペシャル企画・コースのご案内 秋のスペシャル企画としてAコース、Bコース、Cコースの3つのコースをご用意いたしました。 改善させたい症状によりお選び下さい。※ご希望コースを確定できない場合は1回目のみコース未定でお申し込みいただき、ご相談の上コースを決めることが出来ます。 A~Cコースはモニター様の募集となり、価格はモニター価格です。セラピー後にご感想のご協力を頂いております。 ■  秋のスペシャル企画・Aコース 診断名がある方に向いています 全6回 1回目は40分 / 2-6の各回 10-15分  毎週、ほぼ同じ曜日と時間帯にセラピーを行います。 (セラピーご予約例)9月 4日 (土曜日)   10:00~10:409月 8日 (水曜日)     10:00~10:159月 15日 (水曜日)   10:00~10:159月 22日 (水曜日)   10:00~10:159月 29日 (水曜日)   10:00~10:1510月 6日 (水曜日)  10:00~10:15 ■ 秋のスペシャル企画・Bコースイチオシ!エネルギーセラピーの醍醐味が味わえます 全3回 1回目は40分 / 2-3の各回 15-20分 (セラピーご予約例)9月 4日 (土曜日)   10:00~10:40 9月 15日 (水曜日) 10:00~10:209月 29日 (水曜日) 10:00~10:20 ■ 秋のスペシャル企画・Cコース40分  人気沸騰中のエネルギーセラピーを体験してみたい方にお勧めです 単発 40分  ■ オプション弥生水 500ml    皮膚トラブルでお悩み方にご好評いただいています   ■ モニター以外の方(応急相談やご感想にご協力いただけない方) 単発 40分 9月のご予約可能日程 人気が急上昇し、8月分のご予約受付は終了しております。(8月1日時点) 9月分のご予約(8枠)のご予約日程をご案内致します。各お時間帯1名、合計8名の募集となります。 ご希望日時が決まっている方は、お申し込みフォームにご記入下さい。 定員になり次第締切とさせていただきます。 ※9月度の募集は満席になりました。 秋のスペシャル企画募集のご案内 本日より、秋のスペシャル企画コース9月分の募集を開始いたします。 ■ 募集期間:8月20日(金)〜満席になるまで(満席につき締切) ■ セラピー日:9月のご予約可能日程をご参照下さい ■ フォロー期間:10月14日(木)まで  期待する心地よさが得られない場合には、ご相談ください。 ■ 方法:対面(JR仙台駅徒歩10分)     又はZoom(全国どちらからでも受けられます) ■ 定員:8名(年齢、性別は問いません) ■ お申込フォーム こちらのフォームに必要事項をご記入の上送信下さい ※モニター終了後、感想(文)をお願いします※モニター期間内に、不調がゼロまではならない可能性があることをご了承ください ※今回は、師匠の「技」を継承していくために、ご協力くださるモニターさんを募集しています。レメディをご希望の場合は、ホメオパシー相談会をお申込ください 急なお困りごとに「エネルギーセラピーの応急対応」も行っています。お問い合わせくさい。 応急対応お申し込みはこちらのフォームをご利用下さい

師匠に弟子入りします!

手が動き始める。痛みと重度の強張りで、指の感覚さえも無くなっていたのに。手首を回すことができる。重度のリウマチなのに。  師匠の「技」が始まって15分後の様子。目の前で起こっていることに、感動して涙がとまらない。  ホメオパシーも、リウマチの痛みを緩和することができる。でも、ここまでの即効性は出せない。  線維筋痛症の人にも癌の人にも師匠が「技」をしていく。薬を使わないで、どんどんよくなっていく。私の目の前で・・・   門外不出だった師匠の「技」「技」を継承してくために、師匠が弟子をとることになった。 弟子になりたい!なんでもやりたがる私。 でも、私にはすでに持っているものがある。ホメオパシーと医療の経験。これで十分。正直なところ、かなり頭が混乱したし、 家族も戸惑った。十分に自分のやりたいことをやっているでしょ。と。 家庭内がシーーーンとなってしまった。  師匠の「技」とホメオパシーでできることの違いは何だろう?凄い師匠に出会って、私はこれからどうなっていくんだろう? わからない。  それでも、私は、やっぱりやりたい。私には「価値がある」ことだから。 私の周りで痛みがある人がでてくる時に弥生流のやすらぎを提供できるから。  何がどうなるかは、分からないけどめちゃくちゃに、ワクワクするからその気持ちを大事にして前に進むことにしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・残り1名様「肩こり・腰痛・膝の痛みを改善します」 痛みで困っていませんか? 大きい痛みも小さい痛みも生活の質が落ちてしまいますよね。 お役に立てることが増えましたので、ご案内させていただきます。 6月 22日 (火曜日) 12:00~12:20 当日は、レンタルサロンへ直接お越しください。仙台市青葉区中央仙台駅 徒歩10分   〜体験された方のご感想〜すごい効果ですね。ビックリ! 素晴らしいです。 ①背中の痛み・・・改善 少し痛みはあるものの、体のやり場がないという感じはなくなり、眠れた。 今は、肩が痛い。 ②膝の痛み・・・改善 寝ている時の痛みは半分くらいに減った。 曲げた時の痛みも減っている。

人生をかけるほどに好きなこと

2018年2月13日。病院同行を初めてしたこの日は、大切な日です。 「癌が見つかって癌の臓器を全部切除する治療が必要と言われた。 臓器は残しておきたい。医師の説明に納得ができないところもあるけれど何を聞けばいいかわからない。 代替医療も併用したい。医師とどうやって話を進めていけばよいのかわからない。」 悩みをお聞きして閃きました。私が診察に同席すればいい、と。スケジュールを調整し合って、決まった大学病院の診察日。 医師はこれからの2週間の中で受けるべきだと、多数の検査計画を立てていました。「CT検査のような被爆する検査は受けたくない。」と、あきこさんから聞いていたので医師に質問しました。 「なぜ、そんなに検査予約を急ぐのですか」「癌患者さんを救いたいからです。癌の人は急がないといけません。」 『あきこさんを救いたい思いは純粋に同じなんだ。』と思いました。 医師の方針とあきこさんの希望の着地点を見つけるために食い下がって交渉をしました。 医師もあきこさんの希望を考慮してくれて、どうしても必要な検査を1つ予約することになりました。 医師の説明で、あきこさんの癌の特徴が進行が物凄く早いタイプのものだと分かりました。 それをホメオパシーの視点の置き換えて分析し、ホメオパシーのレメディを選びました。 ホメオパシーを始めても癌の勢いは弱まることがなくて癌が魔物のようにみえて困惑しました。 ホメオパシーを始めて半年経った時に「ホメオパシーは止めて病院の治療を受けよう思っているんです。」と相談があり、彼女は病院での癌治療に切り替えました。 その後、抗癌剤の副作用が出て、苦しくて、ご飯が食べられなくなってぐったりしていると共通の友人から聞きました。 吐き気を楽にできるサポート方法を持っていたけれどホメオパシーから離れたあきこさんにとっては、ただのお節介になってしまうかもしれない。と考えたので、伝えたい気持ちをぐっと我慢しました。 ホメオパシーを選んでくれたのに私が提供できるホメオパシーでは歯がたたなかったと自分に無力さを感じていました。 あきこさんの苦しさとリンクするかのように、私もしんどかったのです。でもあきこさんに迫る抗癌剤の苦しみや刻々と迫ってくる死への恐怖に比べるとたいしたことがないと思っていたので、ホメオパス仲間にも打ち明けられませんでした。 苦しかった陰の気持ちは、癌で苦しんでいる人達に手助けとなる知識や技術を見つけられるようにアンテナを張り巡らせ、情報をキャッチしてくことで紛らわせていました。 貪欲に情報を集めていっても私の枯渇している気持ちがある限り、私自身が満たされることはありませんでした。 それでもあきらめないで進み続けていっているといくつもの出会いの中で助けてもらう経験していくなかで癌に対する考えや思いを高めていき、うまく受け入られるようになりました。 あきこさんの尊い命にこの世では会うことができなくなりました。あきこさんが届けてくれているものがやっとわかってきたように感じています。 あきこさんと初めてあった日は、2月13日。その翌日に、癌を患っていた母が息をひきとりました。 私は周りの人にやすらぎを届けたい、そして私もやすらぎたいと思っています。なにかが繋がっていっていると思っています。

泣き虫が羽ばたくとき(後編)

涙が止まらない。早朝の散歩道を泣きじゃくりながら歩く私。ついさっき、隣を歩いている夫にある告白したのだ。夫はしばらく絶句していた。 55歳の今、人生2回目の転機を向かえている。 1回目の転機は、「ホメオパスになる」と自分に誓った日。あの日、医療畑で20年以上勤め上げてきたことに一旦、ピリオドを打つと決めた。 数年前から子育てに自然療法を取り入れていたとはいえ、生活スタイルや収入が大きく変わることが予想されるので、家族を巻き込む大きな決断だった。 夫は私を理解してくれ、全てを応援してくれた。平日は仕事、土日はホメオパシー養成校。子供たちは小さくてそれなりに手もかかっていたけど、休日の子育ては一手に引き受けてくれた。あれから12年。 「話があるの。」言いにくいことを話始める時の定番のセリフ。「あーーきたー。」と、複雑な顔をした夫が言った。 私の性格は、ホメオパシーではカルカーブ。牡蠣殻で作られたレメディ。 牡蠣は硬い殻の中に住んでいて食事と生殖の時だけそーーと牡蠣の口を開けて外の様子を伺い安全をチェックしている。とても慎重派。 何回も確認して安全性を確信ができるとやっと外に出る。 その出方も特徴的。殻の口を少し開いて、ピュッと外に出る。 一瞬で目的を果たし、すぐに殻の中に戻る。 殻の中にいる時は守られているのでいつも安心。 去年、ホメオパスとして独立し、安定期に入ってきた安心感がある。 それでも、全ての癌の人をよくできているわけではない。尊い命を癌で失っていった人達がいる。 その時にできる万全のサポートができた。とプロとして自負もしている。 一方で、彼女達に、彼らに、もっとしてあげることはなかったんだろうか?いつも自分に問いかけている。 時が熟したのだと思う。弥生流を提供できる最終期に入ってきた。 弥生流は、・穏やかだけど確実な成果が出せるホメオパシー療法・医療コーディネイトでホメオパシーと現代医学を繋ぐ・最高峰のエネルギー療法 私たちは神さまの子。魂は神さまから、肉体は両親からもらったもの。一人一人は、神殿のようなものだと思う。 神殿を創り維持していくための、弥生流「3本柱」が揃った。 生まれ故郷は中東のシリア。シリアのパルミラの神殿は、三位の神が祀られている。 だから、私の存在理由を完成させるためにも3つの柱が必要だった。 3本目の確固たる柱の「最高峰のエネルギー療法」を見つけた。 これから、ホメオパスになったと同じくらいの愛と時間と労力がかかるんじゃないかな。 それでも、私はやりたい。だって、ワクワクして楽しくてしょうがないんだもん。 ホメオパシーが大好きで、ホメオパシーを学ぶためなら、インドにだって行けちゃう。そんな熱量の熱い私に、またまた、もう一つの火がついてしまったのだ。 夫が絶句するのもわかる。 ワクワクしつつも、弥生流をどうやって人々に伝えていけるのか悩んでいて、自分を顕にすることへの抵抗感が見え隠れしている。 だって、カルカーブなんだもん。しょうがない。 今学んでいる劇場型ライティング講座では「ノーパン」が一つのシンボルになっている。 これまで自信がない面があって、隠せるものは隠しておきたかった私が自分を曝け出すことにチャレンジしてみたら、周りにとっても私にとっても幸せなことが起こった。 これは、もう、ノーパンになるしかない。私がやりたいこと叶えるために。 私がやりたくてたまらなくて、私の魂が喜ぶことは、「人々の命をうやまう」ことだから。 私の存在理由「私は家族との学びを経て、人々の命をうやまう」 私の源の祖父、父と母が持っていたことであり、やってきたこと。私にも同じように、医療で自分を活かしたい「血」が流れている。 これからも医療という大きな渦の中で、弥生流で羽ばたいていく。

泣き虫が羽ばたくとき(前編)

父と母は、癌を患って逝った。 父は79歳だった。 癌が見つかった時は全身が癌だらけで、余命が僅かだった。癌さえなければ、長生きできたのに。私は父が大好きだったから、長生きして欲しかった。長生きをして、孫の結婚式に参列して欲しかった。だから癌が憎かった。 父が倒れた日、従兄弟から電話が入った。「お父さんが・・・」と聞いて、嫌な予感がした。従兄弟がぐったりしている父を見つけて病院に運んだ。肺癌の一番悪い状態と診断された。と聞いて、言葉が出なかった。 この前、電話で話をしたのはいつだっけ?さいごに会ったのはいつだっけ?こんなになるまで、なんで気づかなかったんだろう。煙草を吸っていたし、体調に関心が薄かったからしょうがないのかなああとどのくらい生きられるんだろう・・・ とにかく、急がなくては。着替えと洗面道具をパックし、2泊3日の予定で仙台から高知に飛んだ。このコンパクトな身の回り品で、1ヶ月間を高知で生活することになっていく。 仙台の家から病院までの道中は記憶が残っていない。記憶が始まるのは病院に着いてから。父は集中治療室のベットで寝ていた。骨と皮だけになり痩せ細っていた。 主治医から「癌が全身と脳に転移しているので余命は1ヶ月です。」と説明があった。一瞬に、生まれてから今までの父との思い出が走馬灯のように蘇ってきた。この先、何が起ころうとしているのか理解ができなかった。心臓がバクバクなった。 薬が効いているせいもあって、父はずっと眠り続けていた。ぼーと父の顔を見ていた。何時間経ったのだろう、父の目が開いた。弱っているけど、私のことが分かってくれて嬉しかった。 おしゃれだった父の顔は髭でボウボウになり、倒れる前はよっぽどにしんどかったことが伺える。 髭を剃り眉毛を切ってあげると、昔と同じ笑顔が見えた。看護師さん達からも「さっぱりしていいですねー」と声をかけられ、喜んでいた。看護師さんは父と私が夫婦だと勘違いをしていたらしい。(笑) 消灯時間まで付き添い、ホテルに泊まることにした。チェックインをしても、緊張とこれからの不安が押し寄せてきて眠れなかった。フロントの自動販売機でビールを買う。アルコールに助けらて、どうにか眠れた。 夜中にけたたましい電話音が鳴り目が覚めた。登録していない電話番号。発信番号は、高知市の市外局番。 嫌な予感がした。ドキドキして電話にでた。主治医から直接の電話だった。 電話口の声が主治医だと分かったとたんに父の命?と最悪のことを考えてしまった。家族に電話連絡をする場合は看護師が電話をかけ、医師に変わることが多いから。 容体が急変し、緊急処置が必要で、その同意が必要ということだった。処置をしないと命が危ない。危険を伴う処置なので助かるかどうかは分からなくて、助かる確率は半分。 主治医に向かって次々と質問を投げた。電話の向こう側からは、淡々と答えが返ってくる。私は、それを思考で咀嚼していった。 実際に処置をするかしないかの決定は、医師にはできない。決めるのは私しかいない。 この時、一人の孤独を感じた。夫は仙台、母は介護施設、妹は海外旅行中。決められなくて困っていたのではない。誰かに、夫に側にいて欲しかった。 主治医にお願いして、少しだけ時間をもらうことにした。父に会ってから決めようと思った。 急いで病院に駆けつけると、父は予想以上に苦しんでいた。それを見て、覚悟を決めた。処置を受けることに同意した。 リスクが高かった処置は成功し、父は生き延びた。私の決断が正解となったのでほっとした。 危篤になったことで、宣告されていた余命1ヶ月がそのままなのか、短くなったのか・・・怖くて、医師には聞けなかった。 次の段取りは、今後どうするかを決めていくことになる。父の側にずっと付いていたい、付いていてあげたいと思った。病院前のホテルに移動し、呼び出しの時に数分で駆けつけられる体制を整えた。 おとなになってから、漠然とではあったけど、父と母を看取りたいと思っていた。仙台に嫁ぐ時にその思いは諦めていた。距離的に遠すぎるからだ。 でも今は高知に戻ってきている。今の時間が父との最後の時間になるはずだ。弱りきっている父を置いて、仙台に帰ることは私には辛過ぎてできなかった。 夫に相談したら、「家のことは心配しないでいいから、気がすむまでお父さんの側にいたらいい。」と言ってくれた。小さかった娘たちも、仙台から応援してくれた。 父のベットサイドにいる時には、明るく過ごした。夜、ホテルの部屋で一人になると不安と悲しさが押し寄せてきた。 いろんな思いが噴き出てきた。小学校の参観日に来てくれた時に他の家は全員がお母さんだったので恥ずかしく思ったこと。思春期に父に反抗したこと。結婚したい人がいると伝えた時の父の顔。孫たちをとても可愛がってくれた思い出・・・枕に顔を埋めて大泣きした。 朝は、泣き腫らした顔を整えてから父に会いに行った。緊急処置から1週間ほどして、父の体力が回復してきて顔色がよくなった。 仙台から孫が会いにやってきたら、とびっきりの笑顔で嬉しそうだった。みんなで父のベットに腰掛け、ワイワイとおしゃべりしたことが最高の思い出になっている。 活力がでてきたら、主治医との話し合いが必要になった。癌末期の痛みのこと癌告知のこと抗癌剤治療のこと 痛みには鎮痛剤が出されていて、効かなくなると医療麻薬に切り換えていく計画だと説明された。麻薬で意識朦朧になり、おしゃべりができなくなるのは嫌だった。こっそりホメオパシーを使い、鎮痛剤は捨てた。ホメオパシーで癌の痛みに対処できなくなったら、鎮痛剤に頼ろうと考えていた。運良く鎮痛剤は1回も飲まずにいたので、亡くなる前日も意思疎通することができた。 癌告知は、父にとっては辛いかもしれないとも考えた。入院後に大量の血痰を吐いていたから、医学的な知識のある父自身は気づいているかもしれない。私だったら自分の病気のことは知っておきたいので、父にも伝えてあげようと思い、同意した。 抗癌剤治療は即決で断った。 これらは、すべて私の思いと考えだった。私には妹が一人いる。 鎮痛剤を飲ませていないない。なんて想像もしていない妹。癌宣告には反対だった妹。抗癌剤治療を受けさせたかった妹。 妹の思いとは全て真逆のことを選択した。私が逆の立場だったら、怒り狂って論破していたんじゃないかな。 仲違いしている妹だけど、あの時は私の思うようにやらせてくれていた。と、今頃気づいた。おかげで、私は悔いのない看取りをすることができたのだ。妹には感謝してもしきれいない。 次に移る病院を探し始めないといけないなあと考えていたが、転院の話は無かった。救急病院なので、医療制度上、入院期間は1ヶ月と決まっている。その病院では従兄弟夫婦が働いていて、彼らも不思議がっていた。何故、主治医が転院のことを一度も言わなかったのかは今でも不思議。 父は救急車で運ばれてから、きっちり4週間後、明け方に眠りながら息を引き取った。大部屋から個室に移ろうとしていた日でもあった。 部屋は6人部屋で、様々な疾患を抱えた人達が日毎に入れ替わっていた。いくつもの家族の人間模様を赤裸々に見えていて、不謹慎だけど、人間ウォッチングで飽きることがなかった。 面白いイメージがが浮かんできた。ここは、軍隊の大部屋。兵隊さん達は訓練の疲れを癒やし、ガヤガヤとおしゃべりをして過ごしている。みんながそろっていて安らぐ空間。 父は大部屋の雰囲気が好きで、一人部屋には入りたくなかったんじゃないかな。最後まで賑やかな大部屋に居られて、いい最後だったと思う。 お金がないわけじゃないから個室で贅沢にしてあげた方がよかったのかなと、後悔した時もあったけど、父はこっちの世界を好きなように堪能してから、あっちの世界へ行ったんだと思う。 書いていると思い出してきた。私は26歳で手術を受けた。お腹の中が血の海になり、命の危篤で意識を失った。覚えてはいないけど、東京の病院で緊急手術となったらしい。父が高知から駆けつけ、ベットサイドで見守ってくれていた。口数が少ない父は折りたたみ椅子に座り、一日中本を読んでいた。 1週間の休暇だった。日頃、有給で休む父を見たことはない。仕事盛りの年代で、今の私と同じ年頃。急に長期の休みをとるのは、結構大変だったんじゃないかなあ。 父が付き添ってくれたので、初めての入院生活はなんなくクリアできた。薄暗い個室だったので、あの時、一人だったら私は寂さに耐えきれなかったと思う。 父は、娘の私を見守ることを最優先してくれていて私もそれが心地よかった。父も私と同じように「家族と一緒の空間にいる」ことが好きだったのかもしれない。 今まで気づかなかったけど、私の「一緒にいたい」は父譲りのようだ。 病気のことでも、見えていなかったものが見えるようになった。 最初は、癌が憎かった。ただただ、憎かった。癌さえ、発生しなれば私達家族は幸せに暮らしていたはず。と思っていた。 今は癌のおかげで父を看取ることができた。と思っている。 治る治療法がない「癌」だったから特効薬がなくて、命が枯れていくのを見守るしかった。 あの世に向かってゆっくりと旅立っていくまでの4週間。父と一緒に過ごさせてくれた癌には感謝してる。

医療と私

ぎゃー 「なんで私を置いて先にいっちゃったのー」 いっぱい泣いた。 泣いている自分に刺激されて泣き声は更に大きくなり、手足をバタバタさせながら大泣きした。 9歳の春の日。 朝起きて居間に入るといつもとは違う気配を感じたし、それは当たっていた。 父が言った。 「おじいちゃんが昨夜亡くなった。お母さんと2人で迎えに行って連れて帰ってきたよ。あっちの部屋で寝ている。」 頭が真っ白になり、次の瞬間に泣き叫んだ。 時間にするとものの3分か5分くらい経った時に、 「そんなに泣くものじゃない。」 と母からたしなめられた。 大袈裟に泣いちゃいけない=泣いちゃいけない。と解釈して涙が引っ込んでしまった。 入院前の祖父は近くに住んでいたので、ちょくちょく遊びに行って可愛がってもらっていた。 入院した時には寂しかったが、我が家で在宅介護をすることになったので一緒に暮らせることになり、指折り数えて待っていた。 私のベットを介護用に使うことになり、祖父の部屋に運び込んだばかりのタイミングでの祖父の死だった。 祖父との忘れられない思い出がある。 小さな村の歯科医院で歯科技工士をしていて腕がよかった。 本来の歯科技工士は歯の詰め物や入れ歯を製作する人だけど、祖父はこっそりと歯科治療もやっていた。 その歯科治療の腕の方も優れていて患者さん達からは喜ばれていた。 今ならちょっとやばい話になっちゃうけど、院長も見て見ぬふりをしてくれていて、そんなことが暗黙で許される時代だったんだと思う。 私も歯科医院の診察台で祖父に治療をしてもらったことがある。 終わった後に、 「おじいちゃんが歯の治療をしたことは、内緒にしておくんだよ。」 と言われた。 治療してもらった嬉しさが吹っ飛び、秘密事ができてしまって複雑な心境になった。 「隠す。隠さなければならいことがある。」 の習癖はこの時からかもしれない。 でも、祖父には感謝の方が大きい。 医療という道を切り開いてくれたのは祖父だ。 祖父の息子の父も医療従事者。 お見合いで結婚した母も医療従事者。 自然な流れで私も医療従事者を仕事に選んだ。 といえば、かっこいいがかなりの葛藤があった。 母からは「歯科医師になるといいよ。」と勧められていたが、なんせ偏差値の点数が大幅に足りない。 看護師になりたかったのではないが、私の学力で手が届く医療従事者が看護師だった。 それでも最終的に私が選んだ。 そして、最愛の夫も医療従事者。

きんぎょの命と共に成長中

きんぎょがにげた 五味太郎さんの絵本はこどもが小さかった時に絵本の世界にぐいぐい引き込まれよく読んだ本の一つ。 きんぎょが水槽から飛び出しあちこちを探検する様子をワクワクして読んだものでした。 いつしか我が家でもきんぎょを飼い始めました。名前は愛情をたっぷり込めて「金ちゃん」。 金ちゃんがのびのびと泳ぐ姿はずっと見ていても飽きることがありませんでした。 ある日、金ちゃんが逃げた!勢いあまって、金魚鉢から飛び出てしまいました。 絵本と違って、金ちゃんは空気の中では息ができない・・・ 金魚鉢の脇で目を白黒させ息も絶え絶えになっている姿を発見した時にはドキドキしました。 急いで水に戻してあげると何事もなかったかのように泳ぎだしました。お見事な蘇生劇。 この後も元気で金ちゃんは7年くらい生きていました。東日本大地震も一緒に乗り越えました。 震度5強もあったので、金魚鉢の水がこぼれてしまいました。 最初に帰宅したこどもが金ちゃんの安否確認をしてくれました。 安全のために引率してくれた先生には玄関で待ってもらいガラスの金魚鉢から安定感のあるバケツに移し変え、水もたっぷりと入れてくれました。 その後、断水でしばらくの間水の供給がなくなったので、ベストな給水タイミングでした。 こどもは金ちゃんの世話をした後、先生と一緒に避難所となっていた小学校に戻りました。 大切な家族の一員でした。 どんなに可愛がっていても、寿命はやってくる。 金ちゃんとの別れは老衰だったと思います。数日前からエサを食べなくなり泳ぐ勢いがなくなり少しずつ弱っていきました。 ホメオパシーのレメディで蘇生を試みたりもしましたが寿命は変えられませんね。死んでしまいました。 泳がなくなった金ちゃんを見ていると、涙がいっぱい出てきて、悲しくてたまらなかった。 いっぱい泣いた後、金ちゃんの肉体をどうしよう・・・ 葬ってあげるいい方法が分からずに布に包んでみたものの段々に腐敗が進み、臭いがキツくなっていきました。 一般ゴミと一緒にするのは心が痛むし・・・ 閃いたのは、川に流すことでした。 週末まで待ち、家族4人で広瀬川の上流に向かいました。 ひと気のない所で川岸まで降りて行けるポイントを探しあちこちチェックしてやっと安心できる場所を見つけました。 水際に近づいて川の水をくみそこに金ちゃんを浮かばせました。その後、水と一緒に川に放ちました。 金ちゃんは静かに、スーと流れていきました。 10年以上経った今でもこども達が言います。「あの時、ママはずっと金ちゃんを見送っていたよね。」 金ちゃんが死んで、一番感傷的になっていたのは私だったようです。 金ちゃんがいなくなった家の中は、ぽっかりと穴が空いているようで元気がでない日々が続きました。 生きものの寿命は人よりは短いので私達よりも先に逝ってしまうことは頭では理解できていても悲しいのは悲しかったです。 家族からは落ち込むから飼うのはやめた方がいいんじゃないと言われましたが、 それでも生きものと一緒に暮らす喜びの方が大きいので次の夏に、縁日で金魚すくいをしました。 2代目の金ちゃんは、数年くらいの寿命。 川に放ってあげたいと思う位の強烈な悲しさはなくなっていて私の中で、生と死の境を受け入れやすくなっていったのだと思う。 そして3代目の金ちゃんを迎え、8年一緒に暮らしました。 先日に死んでしまったのですが今、私の気持ちは穏やかです。 金ちゃんがいなくなってしまった寂しさはあるんだけど余計な悲しみがないんです。 一緒に過ごした日々を軽快に思い出すことができて楽しい思い出ばかりが懐かしく巡るのです。 1代目の金ちゃんが死んだ後ではあーあの時こうすればよかったもっと、こうしておけばよかったと、後悔ばかりが頭に浮かんでしまって心がより苦しくなっていました。 その苦しさを解消したい気持ちもあって2代目を飼い求めていました。 3代目金ちゃんがいなくなった今、次の金ちゃんを飼わなくてもいいかもしれない、と思っています。 もし、飼うことになればそれは枯渇した動機ではなくて金魚が可愛いという、純粋な気持ちだけなんじゃないかな。 今は、「命」というものを受け入れることが私なりにだいぶ上手にできるようになってきています。 父と母の命に触れたりクライアントさんをお見送りさせていただいた中で私の中の何かが昇華できているのかなあと感じています。

ふんどしくらい持っているさ

叔父の咽頭癌と向き合うホメオパスのサポート手記13 叔父のこうきさんは75歳。   高知の村で一人暮らしをしています。   2019年6月に咽頭癌と診断され、8月に手術を受けました。   姪の私が仙台からサポートをしています。 ふんどしくらい持っているさ こうきさんは、どんな人? 癌治療を受けないと言ったことから、こうきさんへの印象が変わりました。 遠く離れてますが、入院準備を手伝いたいと思いました。 こうきさんの性格からして病院から説明されるであろう入院準備の物を無視しちゃいそうな予感がしたからです。 私「手術用の下着とか、買って送ろうか?」 こうきさん「大丈夫じゃ」 私「手術の時には、ふんどし(T字帯)もいるよ」 こうきさん 「ふんどしばあ、持っちゅう。海パンもふんどしも、そればあ持っちょらあよ」 「ふんどしくらい持っているさ。なんだったら海水パンツも持っているよ。それくらい当たり前さ!」 笑っちゃいました。 と同時に、40年以上前のことを思い出しました。 当時は、家から10分歩いた所に海があって 松林を抜けると太平洋が大きく広がっていました。 とっても綺麗な海なんですが、急に海底が深くなっているところがあり遊泳禁止になっていました。 それでも、こうきさんは毎夏、その海で泳いでいました。 しかも、ふんどし姿でした。 こうきさんは、自分の泳ぎにも自信があったし、人の目は気にしないから泳いでいたんだと、今なら分かります。 でも、幼かった私は、こうきさんの行動が恥ずかしくて嫌いでした。 禁止されていることをするなんて、先生(学校の)に叱られる。 ふんどしなんて、江戸時代みたいで時代遅れで恥ずかしい。 なんで、人と違うことを堂々とやるんだろう。 嫌だなあ。 と思っていました。 「人の意見に左右されずに、自己主張する」 それがこうきさんです。 何十年も、その姿勢は一貫して変わっていません。 だから、抗がん剤治療を医師から勧められた時 「抗がん剤治療を受けないと再発する場合がありますよ」 と脅かされた時にも、 「私は抗がん剤治療で弱りたくない。」 と、自己主張を曲げないでいられた。と思っています。 私が医療従事者ではなかったら、 病気の専門の医師から勧められた治療を断る勇気はなかったかもしれません。 「いごっそう」のこうきさんは、自分を生きているから応援したくなります。※いごっそうは、頑固者の土佐弁。 次回は、治療方法を選択する時に「医師に意見を聞く」についてお話する予定です。