プロフィール

泣き虫が羽ばたくとき(後編)

涙が止まらない。早朝の散歩道を泣きじゃくりながら歩く私。ついさっき、隣を歩いている夫にある告白したのだ。夫はしばらく絶句していた。 55歳の今、人生2回目の転機を向かえている。 1回目の転機は、「ホメオパスになる」と自分に誓った日。あの日、医療畑で20年以上勤め上げてきたことに一旦、ピリオドを打つと決めた。 数年前から子育てに自然療法を取り入れていたとはいえ、生活スタイルや収入が大きく変わることが予想されるので、家族を巻き込む大きな決断だった。 夫は私を理解してくれ、全てを応援してくれた。平日は仕事、土日はホメオパシー養成校。子供たちは小さくてそれなりに手もかかっていたけど、休日の子育ては一手に引き受けてくれた。あれから12年。 「話があるの。」言いにくいことを話始める時の定番のセリフ。「あーーきたー。」と、複雑な顔をした夫が言った。 私の性格は、ホメオパシーではカルカーブ。牡蠣殻で作られたレメディ。 牡蠣は硬い殻の中に住んでいて食事と生殖の時だけそーーと牡蠣の口を開けて外の様子を伺い安全をチェックしている。とても慎重派。 何回も確認して安全性を確信ができるとやっと外に出る。 その出方も特徴的。殻の口を少し開いて、ピュッと外に出る。 一瞬で目的を果たし、すぐに殻の中に戻る。 殻の中にいる時は守られているのでいつも安心。 去年、ホメオパスとして独立し、安定期に入ってきた安心感がある。 それでも、全ての癌の人をよくできているわけではない。尊い命を癌で失っていった人達がいる。 その時にできる万全のサポートができた。とプロとして自負もしている。 一方で、彼女達に、彼らに、もっとしてあげることはなかったんだろうか?いつも自分に問いかけている。 時が熟したのだと思う。弥生流を提供できる最終期に入ってきた。 弥生流は、・穏やかだけど確実な成果が出せるホメオパシー療法・医療コーディネイトでホメオパシーと現代医学を繋ぐ・最高峰のエネルギー療法 私たちは神さまの子。魂は神さまから、肉体は両親からもらったもの。一人一人は、神殿のようなものだと思う。 神殿を創り維持していくための、弥生流「3本柱」が揃った。 生まれ故郷は中東のシリア。シリアのパルミラの神殿は、三位の神が祀られている。 だから、私の存在理由を完成させるためにも3つの柱が必要だった。 3本目の確固たる柱の「最高峰のエネルギー療法」を見つけた。 これから、ホメオパスになったと同じくらいの愛と時間と労力がかかるんじゃないかな。 それでも、私はやりたい。だって、ワクワクして楽しくてしょうがないんだもん。 ホメオパシーが大好きで、ホメオパシーを学ぶためなら、インドにだって行けちゃう。そんな熱量の熱い私に、またまた、もう一つの火がついてしまったのだ。 夫が絶句するのもわかる。 ワクワクしつつも、弥生流をどうやって人々に伝えていけるのか悩んでいて、自分を顕にすることへの抵抗感が見え隠れしている。 だって、カルカーブなんだもん。しょうがない。 今学んでいる劇場型ライティング講座では「ノーパン」が一つのシンボルになっている。 これまで自信がない面があって、隠せるものは隠しておきたかった私が自分を曝け出すことにチャレンジしてみたら、周りにとっても私にとっても幸せなことが起こった。 これは、もう、ノーパンになるしかない。私がやりたいこと叶えるために。 私がやりたくてたまらなくて、私の魂が喜ぶことは、「人々の命をうやまう」ことだから。 私の存在理由「私は家族との学びを経て、人々の命をうやまう」 私の源の祖父、父と母が持っていたことであり、やってきたこと。私にも同じように、医療で自分を活かしたい「血」が流れている。 これからも医療という大きな渦の中で、弥生流で羽ばたいていく。

泣き虫が羽ばたくとき(前編)

父と母は、癌を患って逝った。 父は79歳だった。 癌が見つかった時は全身が癌だらけで、余命が僅かだった。癌さえなければ、長生きできたのに。私は父が大好きだったから、長生きして欲しかった。長生きをして、孫の結婚式に参列して欲しかった。だから癌が憎かった。 父が倒れた日、従兄弟から電話が入った。「お父さんが・・・」と聞いて、嫌な予感がした。従兄弟がぐったりしている父を見つけて病院に運んだ。肺癌の一番悪い状態と診断された。と聞いて、言葉が出なかった。 この前、電話で話をしたのはいつだっけ?さいごに会ったのはいつだっけ?こんなになるまで、なんで気づかなかったんだろう。煙草を吸っていたし、体調に関心が薄かったからしょうがないのかなああとどのくらい生きられるんだろう・・・ とにかく、急がなくては。着替えと洗面道具をパックし、2泊3日の予定で仙台から高知に飛んだ。このコンパクトな身の回り品で、1ヶ月間を高知で生活することになっていく。 仙台の家から病院までの道中は記憶が残っていない。記憶が始まるのは病院に着いてから。父は集中治療室のベットで寝ていた。骨と皮だけになり痩せ細っていた。 主治医から「癌が全身と脳に転移しているので余命は1ヶ月です。」と説明があった。一瞬に、生まれてから今までの父との思い出が走馬灯のように蘇ってきた。この先、何が起ころうとしているのか理解ができなかった。心臓がバクバクなった。 薬が効いているせいもあって、父はずっと眠り続けていた。ぼーと父の顔を見ていた。何時間経ったのだろう、父の目が開いた。弱っているけど、私のことが分かってくれて嬉しかった。 おしゃれだった父の顔は髭でボウボウになり、倒れる前はよっぽどにしんどかったことが伺える。 髭を剃り眉毛を切ってあげると、昔と同じ笑顔が見えた。看護師さん達からも「さっぱりしていいですねー」と声をかけられ、喜んでいた。看護師さんは父と私が夫婦だと勘違いをしていたらしい。(笑) 消灯時間まで付き添い、ホテルに泊まることにした。チェックインをしても、緊張とこれからの不安が押し寄せてきて眠れなかった。フロントの自動販売機でビールを買う。アルコールに助けらて、どうにか眠れた。 夜中にけたたましい電話音が鳴り目が覚めた。登録していない電話番号。発信番号は、高知市の市外局番。 嫌な予感がした。ドキドキして電話にでた。主治医から直接の電話だった。 電話口の声が主治医だと分かったとたんに父の命?と最悪のことを考えてしまった。家族に電話連絡をする場合は看護師が電話をかけ、医師に変わることが多いから。 容体が急変し、緊急処置が必要で、その同意が必要ということだった。処置をしないと命が危ない。危険を伴う処置なので助かるかどうかは分からなくて、助かる確率は半分。 主治医に向かって次々と質問を投げた。電話の向こう側からは、淡々と答えが返ってくる。私は、それを思考で咀嚼していった。 実際に処置をするかしないかの決定は、医師にはできない。決めるのは私しかいない。 この時、一人の孤独を感じた。夫は仙台、母は介護施設、妹は海外旅行中。決められなくて困っていたのではない。誰かに、夫に側にいて欲しかった。 主治医にお願いして、少しだけ時間をもらうことにした。父に会ってから決めようと思った。 急いで病院に駆けつけると、父は予想以上に苦しんでいた。それを見て、覚悟を決めた。処置を受けることに同意した。 リスクが高かった処置は成功し、父は生き延びた。私の決断が正解となったのでほっとした。 危篤になったことで、宣告されていた余命1ヶ月がそのままなのか、短くなったのか・・・怖くて、医師には聞けなかった。 次の段取りは、今後どうするかを決めていくことになる。父の側にずっと付いていたい、付いていてあげたいと思った。病院前のホテルに移動し、呼び出しの時に数分で駆けつけられる体制を整えた。 おとなになってから、漠然とではあったけど、父と母を看取りたいと思っていた。仙台に嫁ぐ時にその思いは諦めていた。距離的に遠すぎるからだ。 でも今は高知に戻ってきている。今の時間が父との最後の時間になるはずだ。弱りきっている父を置いて、仙台に帰ることは私には辛過ぎてできなかった。 夫に相談したら、「家のことは心配しないでいいから、気がすむまでお父さんの側にいたらいい。」と言ってくれた。小さかった娘たちも、仙台から応援してくれた。 父のベットサイドにいる時には、明るく過ごした。夜、ホテルの部屋で一人になると不安と悲しさが押し寄せてきた。 いろんな思いが噴き出てきた。小学校の参観日に来てくれた時に他の家は全員がお母さんだったので恥ずかしく思ったこと。思春期に父に反抗したこと。結婚したい人がいると伝えた時の父の顔。孫たちをとても可愛がってくれた思い出・・・枕に顔を埋めて大泣きした。 朝は、泣き腫らした顔を整えてから父に会いに行った。緊急処置から1週間ほどして、父の体力が回復してきて顔色がよくなった。 仙台から孫が会いにやってきたら、とびっきりの笑顔で嬉しそうだった。みんなで父のベットに腰掛け、ワイワイとおしゃべりしたことが最高の思い出になっている。 活力がでてきたら、主治医との話し合いが必要になった。癌末期の痛みのこと癌告知のこと抗癌剤治療のこと 痛みには鎮痛剤が出されていて、効かなくなると医療麻薬に切り換えていく計画だと説明された。麻薬で意識朦朧になり、おしゃべりができなくなるのは嫌だった。こっそりホメオパシーを使い、鎮痛剤は捨てた。ホメオパシーで癌の痛みに対処できなくなったら、鎮痛剤に頼ろうと考えていた。運良く鎮痛剤は1回も飲まずにいたので、亡くなる前日も意思疎通することができた。 癌告知は、父にとっては辛いかもしれないとも考えた。入院後に大量の血痰を吐いていたから、医学的な知識のある父自身は気づいているかもしれない。私だったら自分の病気のことは知っておきたいので、父にも伝えてあげようと思い、同意した。 抗癌剤治療は即決で断った。 これらは、すべて私の思いと考えだった。私には妹が一人いる。 鎮痛剤を飲ませていないない。なんて想像もしていない妹。癌宣告には反対だった妹。抗癌剤治療を受けさせたかった妹。 妹の思いとは全て真逆のことを選択した。私が逆の立場だったら、怒り狂って論破していたんじゃないかな。 仲違いしている妹だけど、あの時は私の思うようにやらせてくれていた。と、今頃気づいた。おかげで、私は悔いのない看取りをすることができたのだ。妹には感謝してもしきれいない。 次に移る病院を探し始めないといけないなあと考えていたが、転院の話は無かった。救急病院なので、医療制度上、入院期間は1ヶ月と決まっている。その病院では従兄弟夫婦が働いていて、彼らも不思議がっていた。何故、主治医が転院のことを一度も言わなかったのかは今でも不思議。 父は救急車で運ばれてから、きっちり4週間後、明け方に眠りながら息を引き取った。大部屋から個室に移ろうとしていた日でもあった。 部屋は6人部屋で、様々な疾患を抱えた人達が日毎に入れ替わっていた。いくつもの家族の人間模様を赤裸々に見えていて、不謹慎だけど、人間ウォッチングで飽きることがなかった。 面白いイメージがが浮かんできた。ここは、軍隊の大部屋。兵隊さん達は訓練の疲れを癒やし、ガヤガヤとおしゃべりをして過ごしている。みんながそろっていて安らぐ空間。 父は大部屋の雰囲気が好きで、一人部屋には入りたくなかったんじゃないかな。最後まで賑やかな大部屋に居られて、いい最後だったと思う。 お金がないわけじゃないから個室で贅沢にしてあげた方がよかったのかなと、後悔した時もあったけど、父はこっちの世界を好きなように堪能してから、あっちの世界へ行ったんだと思う。 書いていると思い出してきた。私は26歳で手術を受けた。お腹の中が血の海になり、命の危篤で意識を失った。覚えてはいないけど、東京の病院で緊急手術となったらしい。父が高知から駆けつけ、ベットサイドで見守ってくれていた。口数が少ない父は折りたたみ椅子に座り、一日中本を読んでいた。 1週間の休暇だった。日頃、有給で休む父を見たことはない。仕事盛りの年代で、今の私と同じ年頃。急に長期の休みをとるのは、結構大変だったんじゃないかなあ。 父が付き添ってくれたので、初めての入院生活はなんなくクリアできた。薄暗い個室だったので、あの時、一人だったら私は寂さに耐えきれなかったと思う。 父は、娘の私を見守ることを最優先してくれていて私もそれが心地よかった。父も私と同じように「家族と一緒の空間にいる」ことが好きだったのかもしれない。 今まで気づかなかったけど、私の「一緒にいたい」は父譲りのようだ。 病気のことでも、見えていなかったものが見えるようになった。 最初は、癌が憎かった。ただただ、憎かった。癌さえ、発生しなれば私達家族は幸せに暮らしていたはず。と思っていた。 今は癌のおかげで父を看取ることができた。と思っている。 治る治療法がない「癌」だったから特効薬がなくて、命が枯れていくのを見守るしかった。 あの世に向かってゆっくりと旅立っていくまでの4週間。父と一緒に過ごさせてくれた癌には感謝してる。

医療と私

ぎゃー 「なんで私を置いて先にいっちゃったのー」 いっぱい泣いた。 泣いている自分に刺激されて泣き声は更に大きくなり、手足をバタバタさせながら大泣きした。 9歳の春の日。 朝起きて居間に入るといつもとは違う気配を感じたし、それは当たっていた。 父が言った。 「おじいちゃんが昨夜亡くなった。お母さんと2人で迎えに行って連れて帰ってきたよ。あっちの部屋で寝ている。」 頭が真っ白になり、次の瞬間に泣き叫んだ。 時間にするとものの3分か5分くらい経った時に、 「そんなに泣くものじゃない。」 と母からたしなめられた。 大袈裟に泣いちゃいけない=泣いちゃいけない。と解釈して涙が引っ込んでしまった。 入院前の祖父は近くに住んでいたので、ちょくちょく遊びに行って可愛がってもらっていた。 入院した時には寂しかったが、我が家で在宅介護をすることになったので一緒に暮らせることになり、指折り数えて待っていた。 私のベットを介護用に使うことになり、祖父の部屋に運び込んだばかりのタイミングでの祖父の死だった。 祖父との忘れられない思い出がある。 小さな村の歯科医院で歯科技工士をしていて腕がよかった。 本来の歯科技工士は歯の詰め物や入れ歯を製作する人だけど、祖父はこっそりと歯科治療もやっていた。 その歯科治療の腕の方も優れていて患者さん達からは喜ばれていた。 今ならちょっとやばい話になっちゃうけど、院長も見て見ぬふりをしてくれていて、そんなことが暗黙で許される時代だったんだと思う。 私も歯科医院の診察台で祖父に治療をしてもらったことがある。 終わった後に、 「おじいちゃんが歯の治療をしたことは、内緒にしておくんだよ。」 と言われた。 治療してもらった嬉しさが吹っ飛び、秘密事ができてしまって複雑な心境になった。 「隠す。隠さなければならいことがある。」 の習癖はこの時からかもしれない。 でも、祖父には感謝の方が大きい。 医療という道を切り開いてくれたのは祖父だ。 祖父の息子の父も医療従事者。 お見合いで結婚した母も医療従事者。 自然な流れで私も医療従事者を仕事に選んだ。 といえば、かっこいいがかなりの葛藤があった。 母からは「歯科医師になるといいよ。」と勧められていたが、なんせ偏差値の点数が大幅に足りない。 看護師になりたかったのではないが、私の学力で手が届く医療従事者が看護師だった。 それでも最終的に私が選んだ。 そして、最愛の夫も医療従事者。

きんぎょの命と共に成長中

きんぎょがにげた 五味太郎さんの絵本はこどもが小さかった時に絵本の世界にぐいぐい引き込まれよく読んだ本の一つ。 きんぎょが水槽から飛び出しあちこちを探検する様子をワクワクして読んだものでした。 いつしか我が家でもきんぎょを飼い始めました。名前は愛情をたっぷり込めて「金ちゃん」。 金ちゃんがのびのびと泳ぐ姿はずっと見ていても飽きることがありませんでした。 ある日、金ちゃんが逃げた!勢いあまって、金魚鉢から飛び出てしまいました。 絵本と違って、金ちゃんは空気の中では息ができない・・・ 金魚鉢の脇で目を白黒させ息も絶え絶えになっている姿を発見した時にはドキドキしました。 急いで水に戻してあげると何事もなかったかのように泳ぎだしました。お見事な蘇生劇。 この後も元気で金ちゃんは7年くらい生きていました。東日本大地震も一緒に乗り越えました。 震度5強もあったので、金魚鉢の水がこぼれてしまいました。 最初に帰宅したこどもが金ちゃんの安否確認をしてくれました。 安全のために引率してくれた先生には玄関で待ってもらいガラスの金魚鉢から安定感のあるバケツに移し変え、水もたっぷりと入れてくれました。 その後、断水でしばらくの間水の供給がなくなったので、ベストな給水タイミングでした。 こどもは金ちゃんの世話をした後、先生と一緒に避難所となっていた小学校に戻りました。 大切な家族の一員でした。 どんなに可愛がっていても、寿命はやってくる。 金ちゃんとの別れは老衰だったと思います。数日前からエサを食べなくなり泳ぐ勢いがなくなり少しずつ弱っていきました。 ホメオパシーのレメディで蘇生を試みたりもしましたが寿命は変えられませんね。死んでしまいました。 泳がなくなった金ちゃんを見ていると、涙がいっぱい出てきて、悲しくてたまらなかった。 いっぱい泣いた後、金ちゃんの肉体をどうしよう・・・ 葬ってあげるいい方法が分からずに布に包んでみたものの段々に腐敗が進み、臭いがキツくなっていきました。 一般ゴミと一緒にするのは心が痛むし・・・ 閃いたのは、川に流すことでした。 週末まで待ち、家族4人で広瀬川の上流に向かいました。 ひと気のない所で川岸まで降りて行けるポイントを探しあちこちチェックしてやっと安心できる場所を見つけました。 水際に近づいて川の水をくみそこに金ちゃんを浮かばせました。その後、水と一緒に川に放ちました。 金ちゃんは静かに、スーと流れていきました。 10年以上経った今でもこども達が言います。「あの時、ママはずっと金ちゃんを見送っていたよね。」 金ちゃんが死んで、一番感傷的になっていたのは私だったようです。 金ちゃんがいなくなった家の中は、ぽっかりと穴が空いているようで元気がでない日々が続きました。 生きものの寿命は人よりは短いので私達よりも先に逝ってしまうことは頭では理解できていても悲しいのは悲しかったです。 家族からは落ち込むから飼うのはやめた方がいいんじゃないと言われましたが、 それでも生きものと一緒に暮らす喜びの方が大きいので次の夏に、縁日で金魚すくいをしました。 2代目の金ちゃんは、数年くらいの寿命。 川に放ってあげたいと思う位の強烈な悲しさはなくなっていて私の中で、生と死の境を受け入れやすくなっていったのだと思う。 そして3代目の金ちゃんを迎え、8年一緒に暮らしました。 先日に死んでしまったのですが今、私の気持ちは穏やかです。 金ちゃんがいなくなってしまった寂しさはあるんだけど余計な悲しみがないんです。 一緒に過ごした日々を軽快に思い出すことができて楽しい思い出ばかりが懐かしく巡るのです。 1代目の金ちゃんが死んだ後ではあーあの時こうすればよかったもっと、こうしておけばよかったと、後悔ばかりが頭に浮かんでしまって心がより苦しくなっていました。 その苦しさを解消したい気持ちもあって2代目を飼い求めていました。 3代目金ちゃんがいなくなった今、次の金ちゃんを飼わなくてもいいかもしれない、と思っています。 もし、飼うことになればそれは枯渇した動機ではなくて金魚が可愛いという、純粋な気持ちだけなんじゃないかな。 今は、「命」というものを受け入れることが私なりにだいぶ上手にできるようになってきています。 父と母の命に触れたりクライアントさんをお見送りさせていただいた中で私の中の何かが昇華できているのかなあと感じています。